くろいぬの矛盾メモ

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「萌え」とは「特定のキャラ属性を持つキャラへの受動的な全肯定」

ここ最近、「サルでも描けるまんが教室」で有名な竹熊健太郎先生のブログで、萌えについての考察が日々続いております。
http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2006/02/post_c9f7.html


しかし、竹熊先生の「萌え」理解が、ちょっとピントがズレているのではないかと思い、しかもそれを誰も的確に指摘出来ていないように思うので、自分なりの「萌え論」について、ちょっと論じてみました。


竹熊先生が、ここしばらく「萌え」だと誤認して論じているのは、実は単なる「フェチ」なのではないでしょうか。言うなれば、それは「絵フェチ」であり「動きフェチ」であり「セリフフェチ」です。
これは非常に80年代的なアプローチだと思います。1980年代にアニメ文化が、絵フェチ=ロリ絵、動きフェチ=乳揺れ、セリフフェチ=だっちゃ、と言う表現の革命を起こし、空前のアニメブームを作り出した頃の文脈上で、未だに竹熊先生は論じておられるのではないかと思います。
現代の「萌え」の本質は、それより一歩踏み込んだ所にあるような気がします。そのきっかけとなったのは、ギャルゲーであり、何よりも90年代的な「サルまん」の分析技法なのではないかと僕は思っています。


「萌え」の対象は、絵柄、動き、衣装、言い回し、性格などの個々のパーツではなく、それらを束ねる法則、すなわち「キャラクター属性」にこそある、と言うのが僕の持論です。


1人の萌えキャラは、「ツンデレ」「つるぺた」「メイドさん」「幼なじみ」など、性格や外見的特性、性格と関連付けの強いコスチューム、主人公との関係性などで分類される、様々なレベルにまたがった複数の属性の組み合わせによって形成されています。
それらの行動パターンは非常に細かくコード化されており、キャラ属性同士の組み合わせの相性や、萌え要素を破壊しない範囲でのミスマッチなどが、不文律的に構築されています。そして、その属性という概念を、作り手だけでなく受け手までもが共有した上で、キャラクターを愛しているのです


この流れは、ハーレム的シチュエーションの漫画をベースにしたと思われる、恋愛シミュレーションときめきメモリアル」に端を発し(恋愛シミュの明確な起源についての論はここでは省略)、ギャルゲー・エロゲーの隆盛と、それを再び漫画にフィードバックする動き(赤松健マンガ「らぶひな」「ネギま!」等が顕著)によって、一般オタク層に広まったものと思われます。さらに、属性分析の一般化を象徴的に表すのが、あからさまな「萌え記号」の集合体であるキャラクター「でじこ」がオタク人気を博したという事実です。


その時の、キャラ属性を形成する際の分析の手法が、非常に「サルまん」的であることは誰も否定が出来ないところかと思います。読者によるマンガの評論・分析行為の一般化、という点においては、確実に「サルまん以前、以後」という変革の流れがあると思っています。


言い換えれば、「サルまん的」なキャラクター要素の分析行動を、一般的なメディアの受け手までもが意識的に行うようになったことが、現代の萌え文化の本質なのではないかと思います。
例をあげれば、かつては「ど根性ガエルのゴローくんって可愛い!」と言っていたのが、現代では「ゴローたん萌え〜!(=わたしはメガネくん属性が好き)」になっているのです。キャラクターの持つ属性を意識し、それが分類学的に作られたパターンだとわかった上で、それを自分の好みのタイプとして認識し、その属性=キャラの本質を愛でること。これが「萌え」という感情の本質なのではないでしょうか。


さらに言えば、これらの属性が導き出す言動や容姿(キャラ絵のタッチ含む)は、全て萌えの対象となります。
「萌え絵をマスターする!」と言うような文脈で言われる「萌え絵柄」と言う見方は、キャラの本質的な属性を愛する「萌え」行動に比べて、非常に表象的であると言えます。言うなれば、キャラの衣装だけを真似たような、非常に「風俗コスプレ的」で「フェチ的」な行動です。


さて。
ここまでは、萌える相手=「対象」についての話でした。次は、萌え感情のあり方=「スタンス」について、論を進めて参ります。


僕は、「萌え」の感情とは、自分が好む属性を持つキャラクターに対する「受動的な全肯定」の感情なのではないかと思っています。


これの逆となる「能動的な全肯定」とは、好きだから自分だけのものにしたい、自分以外は相手にしないで欲しい、自分の思う通りに行動して欲しい、自分好みの格好をして欲しい、と思うこと。一言で言えば、「愛ゆえの束縛」。現実の恋愛でも良くある、強い独占欲を伴う愛の感情です。


一方で萌えとは、「キャラクターを束縛しない愛」なのではないでしょうか。
今のままのキャラクターが愛おしいし、今後そのキャラクターから紡ぎ出される全ての動作、セリフが愛おしいという感情。自分を決して裏切らない二次元のキャラクターに対する、「俺も裏切らないよ」と言う表明と言っても良いものではないかと。
それはキャラクターが衣装を換えても(劇中のコスプレ)、時代背景や設定が変わっても(番外編、劇中劇)、一時的に性格が変わっても(酒を飲む、二重人格など)、変わらない。
何らかの一貫性を持つ「キャラの本質=属性」があることで生じるものである、と。


そのキャラクターの容姿、表情、セリフ、動作、衣装がどんなものであろうと、そのキャラクターの文脈(属性)を完全に壊すもので無い限り、徹底的に全肯定する。それが萌えの本質ではないかと思います。
自分のものにしようとするのではなく、ただ眺める。むしろ、触れてしまうと自分の影響を受けて、そのキャラクターの本質が変化してしまうのではないかと言う恐れすらある、と。


故に、原作キャラクターの文脈を外れた(属性のルールを破った)エロ同人誌を書く人は、厳密にはキャラに「萌え」ていないんじゃないかと思います。あくまで、そのキャラクターに何らかのエロ要素を見出しただけなのかと。
本当の意味でキャラに萌えている人は、キャラの妄想は抱きますが、それを積極的に形にしようとはしないのではないかと思います。自分がキャラを実際に描いた瞬間にキャラの本質が変わってしまうのを恐れるんじゃないかと。自分の「属性の本質把握能力」に自信がある人だけが、自他共に納得出来る「正しい」同人誌を書けるのではないかと思います。


最後にまとめると、「萌え」とは、「特定のキャラ属性を持つキャラクターに対する、受動的な全肯定の感情」なのではないでしょうか。
さらには、その感情が「好みのキャラ属性についての分析と自己認知を伴う」ものであるという点が、非常に現代的であると思います。


これはあくまでも僕の持論ですので、賛同や反対のご意見をお待ちしております。
長文をお読みいただき、ありがとうございました。