くろいぬの矛盾メモ

旧・はてなダイアリーから移行しました。現在は「モフモフ社長の矛盾メモ」 をたまーに更新しています。

インターネットは必ずしも「生の声」のメディアではない

1年前に書いたエントリ「新聞社で読者投稿欄の原稿修正をしてた者ですが」は、反響が大きかった。
「生の声 VS 編集権」と言う、「ネット VS マスコミ」という新旧メディアの対立にも似た構図が、そこにあったからだろう。
 
久々にこの記事がid:y_arim氏の書いた「ネット文化が編集者を失業させる?」で引用されてたので、
ちょっと反論というか反応してみた。
反応の要点は、y_arim氏のエントリのはてなブックマークにも書いた以下の3点。
 
■他人のエントリやコメントから自分のブログへの「引用」も、恣意的に「編集」されている。
■「編集の時代→生の声の時代」という単純な変化や進化ではなく、両者が並存する「多様化」だと思う。
■雑誌の読者投稿欄(ジャンプ放送局/ファンロード/ゲーム帝国/バカサイなど)のニーズが低下したのは確か。

 
ということで、語って行きます。
 
  
■ブロガーも「編集者」である
 
今回、y_arim氏のエントリで引用された部分は以下の通り。
というか、俺の書いた本文自体はまったく引用されてなくて、趣旨を大雑把にまとめられている。

1年以上前にこんな記事が話題になった。
新聞社で読者投稿欄の原稿修正をしてた者ですが - くろいぬの矛盾メモ

 大雑把にまとめると、文章書きの素人ばかりの読者投稿なんて、そのまま載せていたら文意不明確すぎて読めたものではないから編集者が適宜修正するのだ――という話。これに対して、コメント欄やブックマークコメントではけっこうな反発が起こっていた。読者は文字通り、読者の「生の声」を期待しているのだから無編集で載せろ、手を入れるくらいならそんなコーナー作るなとか、なるほど素人の文章は売り物にはならないので、編集されたくないならブログに書けばいいとか。

 ぼくがキモだと思ったのは、以下のコメント。投稿順に「編集」してみた。

hamasta TrashBox そうか、だから時代が変わったことに気づかないんだ。 今のネットユーザーは、ありえないくらい大量の「生の声」を毎日読んでいるんだ。だから生の声が当たり前なんだ。編集されたものを奇妙に感じてしまう。 2008/02/17

ore_de_work 編集されること極端に嫌うようになった それは 時代の流れであり必然だと思う。GPLがみんなを駆逐していったように。 2008/02/18

Sinner media ブログやネットで生の声に慣れると、こういう編集方針は不可思議に思えてくる。文体の編集は当然と思うけど、中身の補強などは本当に必要なのかなあ。 2008/02/18

 b:id:hamasta氏のコメントがあらかた言い尽くしてしまっている。プロの書き物にばかり接してきた世代、あるいは接している職業人には読めたものではない素人の文章に、ネットユーザはすっかり「慣れて」しまっているのだ。

※引用元: ネット文化が編集者を失業させる?
 
ここでy_arimさんの言いたいことって、要は「編集の時代→生の声の時代になってるんだよ!」ということですよね! 
というように、恣意的に引用元の主張を「編集」し、断定してしまうことは、良くあることだ。
「編集されるのって嫌でしょ?」ってメッセージか「釣り」として、意図的にやったようにも見えるが、どうなんでしょ。
id:y_arimさん
※この引用部分の内容についての反論は、後ほどやるので、まずは「引用と編集」という行為そのものについて述べる。
 
 
でも、ブロガー同士なら、今回自分がやったように、新しいエントリを立てて反論すればいい。
でもマスメディアには、記事に対するコメントやトラックバック機能が無い。
そのメディアを読んだ不特定多数の読者に対して、違うよ!こういう意図だよ!と反論を示す方法が無い。
そう見えてしまうことこそが、「読者投稿内容の編集」が問題になった根本なんじゃないだろうか。
 
とは言え、根本的には同じ構図なんじゃないかとも思える。
例えば、超有名ブロガーが書いた人気エントリに比べ、無名ブロガーが立てた反論エントリは、
どれだけ読まれているのだろうか。
膨大なコメントやトラックバックに埋もれて、多くの読者にはほとんど気付かれないのではないか?
さらに言えば、ブログにはコメントやトラックバックの削除権限もあるし(削除すると荒れる、という抑止力はあるが)。
自分が担当していた新聞の読者投稿欄の場合、掲載前に編集済みの原稿の本人確認を必ず
していた(そこで投稿者が拒否されたら載らない)。
逆にブログでは、引用元エントリのブロガーに原稿確認をしたなんて、聞いたことがない。
 
 
この「読者投稿 VS マスメディアの読者投稿欄」と「無名ブロガーの反論 VS 有名ブロガーの元記事」って、
単なる程度問題なのでは? と思えるのだ。
 
 
■マスコミの責任って、そんなのあるの? 
 
ここまで話を進めると、必ず立ち上がって来るのが「マスメディアの責任」という論点。
1年前のエントリへのコメントでも頻出した、「天下の新聞社がそんなことしていいのか?」みたいな。
要は「マスコミなんだから、もっとしっかりしろよ!」ってやつだ。
 
でも、これってマスメディアに対するツンデレ的な愛情というか信頼感の裏返しなのでは?
まるでアイドルに対する、「○○さんがそんなこと言うなんて、失望しました。もうファン辞めます!」
的なメッセージに見えてしまう。
 
まあ、NHKはテレビ持ってる人から勝手に受信料徴収して運営してるから、責任を追及されてもしょうがない。
あと民放各局は電波法で守られてて新規参入を阻止している既得権益者だから、叩かれるのも多少わかる。
でも新聞も雑誌も、別に国が税金で発行してるわけでもないから、売れなければ廃れて行くんだよね。
 
「報道の責任」なんて言葉を真に受けて、本当にマスコミの威信を信じてるマジメな人たちなんだなあ、と思う。
(大手が叩かれて嬉しい単純なメシウマ感覚は別として)、新聞報道や編集のあり方をマジメに叩いてる人を見て
思うのは、「いまだにマスコミの良心みたいなものを信じてるんだなあ」という驚きだ。
 
自分は、学生時代に新聞社で記事を直すバイトをしてただけで、今はマスコミ側にいる人間ではないのだが、
マスコミなんてそんな大したもんじゃねえよ、と思う。
(まともなマスコミなら、事実関係の確認だけはかなり徹底しているとは思うが、それくらい)
 
もしくは、規模の大きいメディアに対する単なるやっかみだよね。
そんなに読者多いんだから、影響力もデカいだろ! もっとしっかりしろよ! 的な。
こっちの方が、感覚的には良くわかる。を
でも、そういうのって結局は読者が判断して、嫌われるメディアは市場から淘汰されて行くものだと思う。
それでも残ってるってことは、大多数の人はいまだに「編集されたコンテンツ」も好きなんだろうな、ってこと。
 
 
■生の声か、編集コンテンツか
 
元エントリにもあった、「編集の時代から生の時代へ」的な意見には、ひとこと言いたい。
だって、ネット上にも編集コンテンツは山ほどあるじゃん。
 

2ちゃんねるがあれば、2ちゃんねるまとめサイトは要らないか?
掲示板やチャットがあれば、ブログやニュースサイトは要らないか?
共同通信時事通信な速報があれば、ニュースサイト、ニュース番組、新聞は要らないか?
生放送のレポート中継さえあれば、ドキュメンタリー番組は要らないか?
生放送のバラエティ番組があれば、台本どおりに進むバラエティ番組は要らないか?
 
ってことだと思う。
 
で、答えとしては、
たぶん両方必要だと思う。
 
だって生の一次情報ばっかり見てたら、時間がいくらあっても足りないから。
さらに、生の情報ってそれだけで刺激的だけど、当然ながら玉石混交だし事実確認も怪しいし掘り下げも浅いから。
 
「ネットの生の声が一番」って言ってる人って、時間に余裕がある人か、ネットに費やせる時間が長い人なのでは?
 
 
■読者投稿欄がメインコンテンツに
 
ネット上では生の声の影響力が大きく、編集コンテンツがメインで生の声がサブという
従来のマスメディアの構図が逆転しているのは確かだ。
それは時代の変化というより、技術的に「生の声メディア」が安価かつリアルタイムで作れるようになった、というだけ。
マスコミや大手のサイトでは、技術的に可能でもスポンサーや株主の影響下にあり、生の声をそのまま
掲載することが出来ないが、ネットの掲示板やブログならほぼ匿名で書き捨てられる。
過激な企業批判や差別発言、放送禁止用語も書き込める。発言の事実関係を確認する必要も無い。
2ちゃんねるなどのアングラな生の声メディアの気楽な面白さは、このあたりにあるとも言える。
 
今までは読者投稿欄やラジオのハガキ職人としてしか発揮できなかった面白パワーが、ネットに一気に流れ込んで来ている。
そういう地殻変動はすごく感じる。
学校のクラスごとに2,3人いる面白いこと言う(書ける)奴が、2ちゃんねるVIP板とかに集まってるんだなあ、って感じ。
 
ちなみに、文章や言葉のコンテンツにおいては、編集コンテンツの「お題」化現象が起きていると思う。
要は、写真を見てひとこと! みたいな感じのサービスが増えているということだ。
 
※メディアの 「お題」 と 「投稿」 の例

  • 雑誌の 編集記事 と 読者投稿欄
  • ラジオの パーソナリティの語り と リスナーのハガキ
  • 2ちゃんねるの >>1 と >>2-1000
  • ニコニコ動画の 動画 と コメント
  • ブログの エントリ と コメント・トラックバック
  • ニュースサイトの ニュース と コメント
  • はてなハイクの キーワード と コメント
  • Twitterの  と つぶやき

 
ちなみにニコニコ動画やPixivでは、編集コンテンツ(動画やイラスト)の方がメインで、コメントがサブになっている。
ユーザーコンテンツを集めたデータベースを、コミュニティ化して盛り上げる、という構造になっているからだ。
 
かつての雑誌で、巻末の読者投稿コーナーとしてひとまとめに隔離されていた部分が、
お題(コンテンツ)ひとつひとつにコメントが付く構造に変わって来ているとも言える。 
読者投稿欄が廃れたというより、お題(コンテンツ)単位で分割され、掲載順もランキング表示されるので、
編集の必要が無くなった、というのが正しいのかもしれない。
Twitterなどでは、個人の人自身がお題になってる、というのも近年の面白い傾向だ。
 
 
■最後にまとめっぽいこと
 
生の声の面白さと、編集されたコンテンツの面白さは、別モノだ。
それは、「ネット=生の声」 VS 「マスコミ=編集コンテンツ」のような単純な対立項ではなく、
どんなメディアにも共通のテーマである。
そして、それらはどっちか片方が優れているのではなく共存しうるし、それぞれを盛り上げるものだと思う。
 
ネットの普及で技術やコストの問題がクリアされ、一般人の生の声やニュースの一次情報に触れる機会が一気に拡大している。
それらの生の情報についてブログやwikiなどで言及する時、自分もいち編集者になっているということは、自覚すべきだと思う。
 
 
P.S.
ここまで読んでいただいてありがとうございます。正直、あまり編集というか推敲してないため冗長ですみません。
今回の趣旨に合わせて意図的に編集しなかったわけではないけど、尺が決まっている媒体で原稿料をもらうなら、
もっと内容を簡潔にしたはず。
プロに書かれた編集コンテンツの存在意義って、こういうところにもあるんじゃないかと思います。