くろいぬの矛盾メモ

旧・はてなダイアリーから移行しました。現在は「モフモフ社長の矛盾メモ」 をたまーに更新しています。

 萌えはフェチの一種なのか?


ども、くろいぬです。
「萌え」議論がかなり激化しているので、しばらくPCから離れていると話題がどんどん先に進んで行ってしまう今日この頃です。
わざわざたけくまメモのエントリーにまで取り上げていただき、ありがとうございました。
http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2006/02/post_6392.html


まず最初に、昨日のエントリーで書いた、僕の定義するところの「萌え」について、再度簡単にまとめてみます。


>「萌え」とは、「特定のキャラ属性を持つキャラクターに対する、受動的な全肯定の感情」。
>さらにその感情が「好みのキャラ属性についての分析と自己認知を伴う」。



1.対象は個々のパーツではなく、特定の(コード化された)キャラ属性を持つキャラクター。
2.キャラに対する感情は、受動的な全肯定。あえて対象に接触せずに眺め、愛でる感覚。
3.自らの好みのキャラ属性(好きなタイプ)について分析し、それを自覚している。


この3つを満たす感情が、現時点における狭義の「萌え」なのではないかと僕は考えています。
そして、ここから先の議論に進む前に、一度確認して置きたいことがあります。


「萌え ≠ キャラクターに対して抱く特別な感情の総称」 と言うことです。
と言うのも、今は「萌え」ブームなので、キャラクターに対する感情は何でもかんでも「萌え」で片づけてしまう状況があるように思います。
人間相手の恋愛感情にもいくつもの形があるように、キャラクターに対する感情も「萌え」以外にも色々あるんじゃないかと思います。つまり、あるキャラクターに対して、単純なエロティシズムを感じている人も、人間に向けるような純愛を感じている人も、フェティシズムを感じている人も、萌えを感じている人も、自己を投影して共感している人も、嗜虐趣味を感じている人もいるということです。
その上で、ここでは「純愛」や「フェティシズム」など、今までの概念では分類しきれない、狭義の「萌え」感情について論じたいと思っています。


さて、前置きはこれくらいにして、本題の「萌え」と「フェチ」について考えて行きます。


竹熊先生に、「『萌え』とは、複雑なコードをともなった『フェティッシュ』なのではないか」と言うご指摘をいただきました。
これは、大枠において正しいと思います。
狭義のフェティシズムと狭義の萌えは異なるものだと僕は思いますが(詳しくは後述します)、広義で捉えた場合、両者は多くの部分で重複して来る概念だと思います。
そして骨男さんの言う、「フェティッシュは萌えのトリガーである」と言う説にも一定の説得力を感じます。


ただし、これらの「萌えとは、フェティッシュの内包概念」と言う意見をそのまま納得しにくいのも確かです。
と言うのも「萌えキャラ属性」を構成する要素は、「メイド服」や「貧乳」や「猫耳」などの狭義のフェチの対象物である身体のパーツや装身具だけでは無いからです。萌えのトリガーとなるもの=フェティッシュであるとすれば、「ドジ」「幼なじみ」などの性格や主人公(自分)との関係性のようなキャラ属性を構成するあらゆる要素に対してフェチの対象領域を広げる必要があるのではないかと思います。


そして、これこそが萌えとフェチを同一視するか否かの境目ではないでしょうか。
性格や関係性など、キャラ属性のあらゆる構成要素を「フェティッシュ」として認めてしまえば、それをトリガーとした「キャラ属性愛」はすなわち「フェティシズム」になります。でも、これはフェティッシュを広義に捉え過ぎではないかと思います。


「私、優しさフェチだからお父さんみたいな人が好き」
「俺、しっかり者フェチだから委員長が好き」


と言うのは、若干の違和感があります(ただ、完全な違和感と言うほどではありませんね)。
やはりフェティシズムの定義から見ても、狭義のフェチの対象は物質的なものに限られるべきではないかと僕は思っています。一方で、萌えの入り口が広義のフェティッシュである、という意見に説得力があるのも事実です。


もしかすると、現代の「萌え属性」においては、「ドジ」「幼なじみ」のような性格や関係性などの要素までもが、「巨乳」「メガネ」などと同列に、パーツとして半ば物質的(もしくは記号的に)に扱われているからかも知れません。


そう考えると、個々の「萌え要素」(パーツ)から入って、「萌えキャラ属性」(全体)に至った感情のことを「萌え」と呼ぶ、と定義し直すことも出来そうです。
萌え要素」(パーツ)で止まっているだけの人は、萌えではなく単なる「フェチ」なのだと。
「部分から入って全体に至る」と言う意味では、最初に書いた萌えの定義にも合致しているのではないかと思います。


また「キャラクターへの受動的な全肯定」という定義から、キャラクターの人格に対する純愛と同じではないか、と言う意見もありました。
ただ、これには異論を唱えたいと思います。
いわゆる「萌えキャラ属性」は、人格と呼べるほどの深みを持っていません。むしろマーケティングの手法で容易に分析可能な、単なるパターンの集積です。そして多くの消費者は、いわゆる「萌えキャラ属性」が単なるパターンであることを自覚した上で、そのキャラクターに萌えています。
「萌え」が純愛と大きく異なるのは、複数の要素を持った「人格」に対する愛ではなく、複数の要素の「組み合わせ」そのものに対する愛だと言う点です。


言うなれば、「属性愛」、「組み合わせパターン愛」です。


その意味で、性格などの要素への偏愛までもフェティシズムと呼ぶのであれば、萌えも広義のフェチに含まれ、竹熊先生の言うように「複雑なコードを伴うフェティシズム」と呼べるかも知れません。


しかし、身体パーツや装身具ではなく、性格や血縁などをフェチの対象物にしていいものでしょうか?
ここは皆さんのご意見を伺いたいと思います。